私たち当時の子供は、もし戦争に負けたりしたら、男はみんな殺されると教えられていた。 当時、この周辺は、大きな水道タンクがある以外は、一面なわけで、埼玉の奥に疎開させていた子供たちを、自分のもとに呼び戻しておいたというわけだった。
八重洲にある店舗は、空襲でもはやカゲもカタチもないという話だったから、東京に着いて私たちが向かったのは、今でいう東京都杉並区の善福寺公園近くにある伯父の家だった。 6畳一間が私たち家族の部屋で、そこに、父、母、妹2人、私の5人が身を寄せて生活していたのである。
私たちの戦後は、その善福寺の間の狭い部屋から始まったというわけだった。 小学校も近くにあった学校に転校したのだが、食糧難の時代だったこともあって、母が畑を作っていろいろな作物を育てていたことなどが、その頃の思い出として私の記憶に残っている。

それからしばらくして、私たち。 家が練馬区桜台にあるK進第1小学校のそばに引っ越していたときのことである父は八重洲の米屋の跡地にバラック小屋を建て、何人かの従裳口とともに、そこで米雌の営業を丙開していた毎朝、その練馬の家から八収洲の店に通っていたのである。
そうして戦後の混乱期を生活していた昭和生になっていた。 そんなある日、父が事故に遭って、重体だという話がきこえてきたのだ。
なんでも、米俵の上にあった肺や蓑が父の頭上に落ちてきて、それで脳内出血で入院したというのである。 母は急いで父のもとに駆けつけたのだが、私たち子供が行っても何もできず足手Mといになるだけだから、私は練馬の自宅で、妹たちと共に3人で暮らしていた。
やがて年が明けて昭和22年となり、3ヵ月も過ぎた1月4日の夜のことである。 深夜になって、私と妹が布団をならべて寝ていると、部屋の壁の1カ所に、ぽうっと白く光る何かがはっきり見えるのである。
なんだろうとは思うものの、怖くて布団を出て確かめにいくこともできない。 妹にも見えるようなのだが、あまりの恐ろしさに、2人とも口も聞けないまま、ただじっと寝ているだけだったのである。
あるいは、家の土壁が崩れてしまい、そこから月の光が差しているのではないかとも思うのだが、それにしては、ぼんやりと、まるで和紙に囲まれた灯篭の灯のように薄暗い光を発しているのだった。 怖いので、しばらく目をつぶり、数分経ってもう消えているだろうとまた目を開くと、やはりぼんやりと光っている。

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